「鷺の巣」賞受賞句雑感 (アメリカHAIKU・WEB雑誌 「鷺の巣」 2012.9月号)

                ポール·マクニール 
                     アソシエイト·エディター、ヘロンズ・ネスト

  マサチューセッツ州の北部からカナダのマリタイムズ地域にかけて、北米の北端にあたる地域は、ほとんどが岩の海岸線を有する。その沖合深く、とても冷たい海水の中に、食べる人にとって、また調理人にとっても、かけがいのないHomarus americanus(ホマラス アメリカヌス)、アメリカン・ロブスターが生息している。

 小さな男の子が
 ロブスター水槽をこつこつ叩く
 秋深む                        【対訳/直訳】(注)

Joyce Clement ジョイス クレメント
    Bristol, Connecticut ブリストル、コネチカット州

 少年が
 海老槽叩く
 秋の末                        【義訳/超訳】(注)       

   a small boy      
   taps the lobster tank
  autumn deepens     【原句】

 驚くほど発達した航空輸送と冷水ディスプレイタンクのおかげで、男の子は俳句で描かれている、大きくて、生きているロブスターに出くわした。販売用ディスプレイは、米国内だけでなく、世界中のレストランや大型スーパーマーケットでも見受けられるものだ。ロブスターの表面は、調理されると斑模様の茶緑色から、楓のような鮮やかな赤色に変化する。水産業界では、通常「メイン・ロブスター」と呼ばれ、浮きに繋げた餌の罠で捕獲されるこのロブスターは、色々あるロブスター関連種の中でも、王とみなされる存在である。他の大陸系の棘あるロブスターよりも身肉が多く、ジューシーな風味のため人気がある。

 中に入れられている動物を動かせようと、子供たちが水槽を叩くことはよく見かける風景である。しかし、好奇心の対象となったロブスターは反応しない。ロブスターが動くのは、より良い位置取りのためであり、他のロブスターの虜になっているか、或いは本能的に大西洋の海底に一人うずくまるが如く、隅っこに単独でいられるように動くのが常である。ロブスターは攻撃的で共食いも行い、驚くべきパワーと鋭い切れ味の2本の爪で自身を守る。不注意な漁師が、指を失うこともありうることなのである。

特殊な重いゴムバンドで締められる爪のような武器を、ロブスターは遺伝的に兼ね備えているわけではないが、他のすべてを危害から守り、一方、少年も十分に楽しむことができない理由にもなる。ロブスターは、さらに8本の短い脚、2本の揺れ動くアンテナ、見る人には「かっこいい」或いは「不気味」な印象を与える、ひれ付きのがっしりした平たい尾を持っている。

偶然にも、少年とロブスターは出くわした。少年の最初の印象は・・・ロブスターは自分の顔と指を見たものの、理解できなかった・・・というものだろう。

 俳人は私たち読者と強烈な印象、その場の雰囲気を共有する。ロブスターは1年中売られているが、一般的には1月や2月は自発的な資源保護期間として、また悪天候によって捕獲されることはない。この俳句は、晩秋の情景となっている。水槽の中身は湯がくために取り出され、自宅に持ち帰るため包まれるので、甲殻類にとっては正に冬直前の季節に相違ない。私の理解では、擬人法を用心深く扱っているし、また、少年の動物への目覚めを扱っているように思えるのだが、必ずしもそのように読み解く必要はない。私たちは、少年の好奇心と欲求不満を共に感じ取り、また作者であるジョイスと共有し、水槽の生物の消えゆく生命と時間、切なさに気を馳せることもできよう。

原文(英文)


(注)翻訳のあり方、分類等については特に定められたものがあるわけではなく、一般的には「直訳」「意訳」などがよく使われる言葉だが、直近の「広辞苑」に「直訳とは、原文の字句や語法に忠実に翻訳すること」とされるものの、「直訳的」とは「文章が生硬で、翻訳する言語として十分こなれていないさま」とあり、あまり良い印象では語られない。
 一方、政治・経済・技術など、あらゆる社会経済上の必要性から翻訳を迫られた幕末の人々はどのように取り組んだかといえば、「解体新書」に取り組んだ杉田玄白は、「蘭学事始」において、「訳に三等あり」として、「翻訳・対訳、義訳、直訳」の3つを挙げている。このうち、翻訳・対訳が今でいう直訳であり、ここの直訳とは「語の当つべきなき」つまり日本語にはない言葉で、原語の音そのものを記すことを指している。そして義訳とは、既存の語彙に対応できず、その意味をとって訳すこととしている。いわば意訳であるが、語彙の問題等から直訳しても意味が通じない場合、意味内容を訳者の側でくみとり、語彙を再構成する方法と解せられる。

 さらに超訳とは、時代が一気に進み、シドニー・シェルダンの小説翻訳の名称として使われたもので、要するに読者が翻訳文学特有の言い回し・直訳の悪弊などを感じず、日本の読物小説と同等の「読みやすさ」を念頭に行った、映画の字幕スーパーに近い、大いなる意訳を指しているのである。

さて、そこで本稿は、いわゆる逐語訳、直訳に近い【対訳/直訳】と、思い切った意訳で、575調に近づけた【義訳/超訳】の両方を記載することとした。訳は唯一ひとつしか提示できないと決まりがあるわけではない。どれほどの差異がでるかわからないが、難訳の場合において、より効果を現すやもしれないとは感じている。今後も、翻訳に当たってはこのような試行を重ねる予定であり、読者からは忌憚のない批評をいただければ幸いである。

真矢ひろみ(シキチーム)