「鷺の巣」賞受賞句雑感 (アメリカHAIKU・WEB雑誌 「鷺の巣」 2012.3月号)

                フェリス ギリ
                      編集者、ヘロンズ・ネスト

クレヨン地図
息子が示す
ネバーランドへの道

               【義訳/超訳】(注)

      
ジョン・マクナマス

    

     crayon map
     my son shows me the way

    
to Neverland

       【元句】

               John McManus

 どのような俳句においても、その価値を見極めるためには、2つの核心的な質問に答えなければならない。その俳句が示す表面的なイメージの他に何かがあるのか? その俳句に詩なるものを探求するうえで、一体何がとっかかりとなる要素となっているのか? この2つの点である。
 ジョン·マクマナスのクレヨンの俳句について書こうとしているうちに、この句は父と子の愛情深いひと時の情景以上のものがあることに気付いた。しかし、何を書くべきか、どこから書き始めるべきはわからなかった。何度も書くべきことを考えているうちに、素晴らしいことが起こった。この句を研究していくと、この俳句が蓮の花が開くように、明らかになっていった。私の中で、漠然としていたものが、想像力と内省によって高められたことによって、現実に根差しつつはっきりと姿を現したのである。私は自分自身の内なる“子供”となって、この俳句に臨んだ。この俳句の深い味わいを可能にしたのは、俳句の作り手であり、かつ読み手ともなることなのだ。この統合された存在・視点は、色々な世界をまたぐ橋をさし示すことになる。
 詩は確かに記述されたものを文字通りに読まれるべきであるが、その解釈の可能性はそれよりもはるかに深い。三行目、おそらく好意を持って、度々使われる子供向け物語に関わる記述“ネバーランド”は、翻ってこの俳句を豊かにし、俳句を読み説く先導的なものになっている。 
 おそらく、この クレヨンの地図とは、星々を通って幻想的な場所にたどり着く経路だけでなく、息子の世界観、夢に到る道筋を表し、それはほぼ確実に、父親にとっても昔そうであったように、子供にとっては現実と同じように意味のある、空想で作り上げられた物である。そうであるなら、親に対する最高の贈り物なのだ。 
 小児期と成人期は、境界線が気まぐれに変動するような二つの国のように見えるかもしれない。おそらく、マクマナスの詩で、 "ネバーランド"は幼少期の別称なのだ。息子は、父に "ネバーランド"への道を示すことで、親が執着しがちな規律とか批判から引き離し、自分の遊び相手として、この幻想的、一時的な世界の片棒を担がせようと誘っているのだ。
  父を見上げる幼く、真面目で真摯な顔、息子の遊びと真剣さが混然となったこの企ては、彼が父を見上げる信頼しきった笑顔の中に、明らかに浮かんでいるのだろうか。“お父さんは一緒に来るのだろうか?お父さんだから来てくれるよ、賭けてもいい”一方、父親である詩人は、片足はすでに境界を跨ぎつつ考えている。“息子と一緒に行けるのか?本当に?” 
 子供たちは、ネバーランド、キャンプハーフブラッド、フェルガレィ、シャーウッドの森、そしてホグワーツのような場所に行くことを夢見る。大人たちは、折にふれ、ほとんど衰弱してしまった郷愁を感じ、庇護されて生活が型にはめられているとしても、子供時代を懐かしがり、かつて信じていたように、魔法の存在をもう一度信じたいと思っている。しかし、もし子供時代に戻れたとしても、生き生きとした活力は消え失せ、人生はシフトしてしまったことを思い知るのだ。 
 ピーターパンとこの世から飛んでいきたいと時折思うような大人の読者にとって、この俳句は、とても気持ちを高揚させるに違いない。ネバーランドの小島で生活するピーターはいつまでも子供であり続ける。この世から数光年離れた幻想的で危険な場所での彼の永遠の少年性は、選択のなせる業なのだ。ピーターは成長することを拒む。魅惑的で神秘的なネバーランドの人の様子やピーターパンの冒険は、自分の子供だったらどうしようという疑問を持つような親にとっては、とても感動的なのだ。 
 俳句の持つ簡潔さという特徴の完全な例として、この句は無駄な語彙は一つもないと言える。内面的で、暗黙の並置手法で強化され、この詩は重層的でかつ直接的なものになっている。魅力的なリズムは、声をあげて読むことを要求している。具体的なイメージは明確な心象を呼び起こし、決定的に重要な文献の引用“ネバーランド”は俳句の奥底までの道筋を示している。季節に関しては、個人的には冬、それも暖炉脇のくつろいでいる雰囲気を感じる。 
 実際のところ、読者は詩人と息子の温かい時間に共感するかもしれないし、いや、それ以上に入り込んで・・・信じるようになるかもしれない。「鷺の巣」の編集者は、この俳句を提供してくれたマクマウスにその機会を読者に与えてくれたことを感謝します。【ネバーランドへの道とは・・・】「2番目の星を右側に行き、朝までまっすぐ進む」 

フェリス・ギリ

※注 最終段落【 】内は訳者の追記です。

原文(英文)


(注)翻訳のあり方、分類等については特に定められたものがあるわけではなく、一般的には「直訳」「意訳」などがよく使われる言葉だが、直近の「広辞苑」に「直訳とは、原文の字句や語法に忠実に翻訳すること」とされるものの、「直訳的」とは「文章が生硬で、翻訳する言語として十分こなれていないさま」とあり、あまり良い印象では語られない。
 一方、政治・経済・技術など、あらゆる社会経済上の必要性から翻訳を迫られた幕末の人々はどのように取り組んだかといえば、「解体新書」に取り組んだ杉田玄白は、「蘭学事始」において、「訳に三等あり」として、「翻訳・対訳、義訳、直訳」の3つを挙げている。このうち、翻訳・対訳が今でいう直訳であり、ここの直訳とは「語の当つべきなき」つまり日本語にはない言葉で、原語の音そのものを記すことを指している。そして義訳とは、既存の語彙に対応できず、その意味をとって訳すこととしている。いわば意訳であるが、語彙の問題等から直訳しても意味が通じない場合、意味内容を訳者の側でくみとり、語彙を再構成する方法と解せられる。

 さらに超訳とは、時代が一気に進み、シドニー・シェルダンの小説翻訳の名称として使われたもので、要するに読者が翻訳文学特有の言い回し・直訳の悪弊などを感じず、日本の読物小説と同等の「読みやすさ」を念頭に行った、映画の字幕スーパーに近い、大いなる意訳を指しているのである。
さて、そこで本稿は、いわゆる逐語訳、直訳に近い【対訳/直訳】と、思い切った意訳で、575調に近づけた【義訳/超訳】の両方を記載することとした。訳は唯一ひとつしか提示できないと決まりがあるわけではない。どれほどの差異がでるかわからないが、難訳の場合において、より効果を現すやもしれないとは感じている。今後も、翻訳に当たってはこのような試行を重ねる予定であり、読者からは忌憚のない批評をいただければ幸いである。
真矢ひろみ(シキチーム)
 



Brief summary of "Haiku translation project"