正岡子規国際俳句大賞 受賞記念講演

俳句と短詩型とフランスの詩人たち

イヴ・ボヌフォワ
川 本 皓 嗣 訳



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本日の集まりにお招きいただき、まことにありがとうございます。俳句について、さらには短詩型について、皆様とご一緒に語り合う機会を与えてくださったことを、心から光栄に存じます。ただ、申すまでもなく、俳句や短詩型といった詩の世界は、まさに日本の文化、日本の大詩人たちの独壇場です。そういう世界に近づくには、私は未熟に過ぎるのではないかという思いを禁じえません。ごくわずかな言葉どうしの調和と不調和のなかに、すべての現実――社会的なものと宇宙的なものとをあわせた現実のすべてを鳴り響かせることにかけて、日本人ほど熟練の域に達した人々は、世界中のどこを探してもいません。皆さんは、みごとなやり方で言葉に永遠を結び付け、そうすることで国境の壁を越えたのです。少なくともフランスではかなり以前から、多くの人々が日本の詩人たち、とりわけ芭蕉の声に耳を傾けてきました。私の人生においても芭蕉の存在は大きいのですが、これについてはあとで触れることにします。


フランスの詩人たちは俳句が大好きです。そこで、まずこの点を確認して、その意味するところを少々吟味してみることから、私のささやかな俳句論を始めさせていただきます。フランスの詩人たちは俳句が大好きで、ことに約五十年前からは、格別の関心を寄せてきました。かれらは俳句の精神を理解しようと真剣な努力をはらい、そこから自分と世界との関わりかたを学ぼうとしたのです。だからフランスの詩人たちも、及ばずながら、俳句の勘所のせめていくつかには迫ることができそうです。


さて、最初に申し上げておきますが、私どもは翻訳を通さなければ俳句に接することができません。となると、俳句の本質的な部分は少しもこちらに伝わっていないではないか、そういう思いに駆られそうです。それにはいろんな理由がありますが、それらをなおざりにしておくわけには行きません。まず、フランスと日本の詩人との間には、言語の壁があります。その結果、言葉が世界と結び合うさまざまな関係全体のネットワークのなかで、大きな思考概念や、もっと小さな(ただし詩にはよく出てくる)概念の占める位置が、たがいに違ってくるのです。ひとつには、ある日本語の単語をフランス語の単語に訳すときに、それら二語のもつ意味(文字どおりの意味と言外の含意)が食い違う、ということがあります。しかし、そればかりではなく、おそらくこういうこともあり得るでしょう。すなわち、日本語でならば、ただひとつの概念でまっすぐに、ほとんど直観的に言い表わせることでも、フランス語ではすぐには理解できないために、厄介な分析の手続きを重ねた挙げ句、その日本語の概念が、われわれにはまったく別々としか感じられないいくつもの概念に分解してしまい、それら複数の概念の間に、これまで思っても見なかったような関係を何とか見つけようと、首をひねるといった事態です。しかも、俳句のように短い詩では、思考が次々に展開されるということはあり得ないので、その翻訳でいま述べたような事態が起こった場合、この問題の厄介さは想像を絶するものがあります。ことに、そうしたよく分からない日本語の概念が、日本人の詩についての見方や、もっとも基本的な世界の認識にかかわる根本概念である場合には、なおさらのことです。


また、そうした語彙上の食い違いと並ぶもうひとつの問題として、統語上(文法上)の違いがあります。日本語とフランス語の文法ほど、たがいに大きくかけ離れたものは考えられないからです。フランス語のようなインド=ヨーロッパ語族系の言語の文法と、日本語のように個別的、具体的な概念や情報から意味を紡ぎ出すやり方とのあいだには、何と大きな隔たりがあることでしょう。というわけで、日本語には、語と語をつなぐそうした独特の文法関係があればこそ、初めは似ても似つかなかったさまざまな印象が、直観によって結び付けられて、俳句の道が切り開かれて行くのです。そして想像するに、フランス語の分析的なセンテンスよりもずっと楽々と、ずっとすばやく、日本のあらゆる詩の核心をなす 「一(いつ)」 ないし「無」の感情に行き着くのです。イギリスの詩人ジョン・キーツの『ナイチンゲールに寄せる歌』や、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』が、サヨナキドリのたえなる夜の歌や、ひとけ人気のない真昼の海の印象を伝えるために、長々といくつもの詩節を連ねていますが、芭蕉や子規のような詩人なら、おそらくたった十七音でこと足りるに違いありません。だから、芭蕉や子規の詩のフランス語訳や英語訳に、あまり期待がもてないのもむりはないでしょう。


その上、日本語を書き表わすのには表意文字が用いられますが、これらの記号は外見上、少しばかり事物の形をとどめていることがよくあります。俳句は短いので、そのすべての文字を一目で眺めることができるでしょう。だから詩人は、文字たちの織り成す目に見える形の震えを、揺らめきを、言葉の連なりの中にさっと走らせることによって、そこで描かれる情景におけるもっとも直接的なもの、もっとも親密なものを、読み手に感じ取らせることができます。この詩人は画家でもあります。彼は、言葉そのものの知識に加えて、言葉を越えた知識をあわせ持っているのです。それは、画家が自然の「場」の大いなる光景を前にして、沈思黙考を重ねつつ深めていった眼力によって、はじめて得られるような知識です。しかし、フランス語に訳された場合、そうした直観のどれだけが生き残ることでしょうか。なぜなら、アルファベット表記が極度にし恣い意的、抽象的な性質をもつために、われわれの言葉は、その指し示す事物の具体面から切り離されているからです。われわれの文字は、世界との直接的な関係を棄てました。だからこそ、物質の科学については無類の強みを発揮するのですが、だからこそ、詩を書くことが難しくなるのです。正直に言って、私は表意文字を使える皆さんをうらやましく思います。それに、どの文字を見ても、その字を構成する何本かの線の真ん中に、ぽっかり口を開けたからっぽの部分があって、そこに「無」 が、「無」 の体験が、意味されているように思われます。それだけに、なおさらうらやましい。さっきも申しましたように、「無」と「無」の体験こそ、あらゆる詩的思考の最大の関心事なのです――もっとも詩というものは、生きるという経験のなかに、この世に存在する理由となり得るものを探るわざであることに変わりはないのですが。日本語の表記に用いられる文字にはけいがん慧眼の光が宿っています。


つまり、この明敏さは、日本人が詩を書く作業の出発点にあるわけですが、われわれの場合には、仕上げの段階になってようやく現われてくるに過ぎない――むろん、それも途中で道に迷わなければの話です。どう見ても、俳句を西洋の言葉に訳するのはとびきり難しい。もうあきらめて、翻訳など不可能だと考えるたくなるほどです。

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 だがそれでいて、フランスではこれまでも今も、俳句が大きな関心を集めています。それはなぜでしょうか。

 おそらくそれは、要するに、フランス語に訳された俳句が、かなり貧弱なものになっているとはいえ、それでもやはり短詩型の最高の見本を提供しているからです。いまヨーロッパでわれわれが置かれている状況から見ると、すでにそれだけでも、手本として、また励ましとして、たいへんな価値があるのです。


 では実際のところ、短詩型の特徴とは何でしょうか。それは、詩的経験そのもの、詩以外の何物でもないような独特の経験に向かって、身も心も開くという能力を増大させることです。

 ここでは取りあえず、きっちり十七音に限定された詩、意味ばかりでなく文字の形自体が意味をもつような詩、つまり日本の俳句だけに話を限らないで、日本語であれフランス語であれ、ごくわずかな語数である感動や、直観や、感情や、知覚を語ろうとした作品すべてを問題にすることにしましょう。これほど狭い言葉のスペース、しかもそれなりに完結し、自立したスペースのなかでは、もちろん何かの物語を展開することなどできません。できたとしても、せいぜいのところ、ただ一つの物語を遠回しに、しかもさっとひとふで一筆で暗示する程度のことでしょう。ということは、とりもなおさず、短詩型の言葉は、出来事や物事に対するある種の姿勢に縛られないですむということです。物語では、出来事や物事を因果関係の連なりとしてとらえます。そういう物語的な姿勢をとった場合には、人生のさまざまな状況をなす出来事や物事を認識するのにも、分析的な思考、すべてを一般化するたぐいの思考という回り道を通るほかはない。そこが危険なのです。つまり、個々の具体的な現実を、外からしか見ていないことになります。短詩型は、じかの印象から距離を置こうとする、そうした物語的な誘惑をまぬがれています。だから、他のどんな詩形よりもずっと自然に、ある生きて体験された瞬間と、ぴったり一体化することができるのです。


 しかもこの瞬間のなかでは、しょせんごく僅かなことしか扱うことができません。言葉の数がごく限られているからです。だから、われわれの生きているこの一瞬間に、われわれのなかで、世界のさまざまな物事どうしが作り出すもろもろの関係が、自由に羽を伸ばすことができ、その震え・おののきをさえ、まざまざと伝えることができます。抽象的、概念的な思考に縛られていないだけに、なおさらよく耳に聞こえるのです。そのようにして、長たらしい弁舌の陰で見失われていた魂の故郷――あの合一感、あの「一(いつ)」なる感情に、われわれは帰り着くのです。そして言うまでもなく、この合一感の体験、ただ頭で考えただけでなく、身をもって生きられたその体験こそが、「詩」に他なりません。西洋ではこのことが忘れられがちです。というのは、われわれの宗教的伝統――世界を超越する人格神の伝統のために、絶対なるものと、あるがままの現実とが切り離されているからです。それにしても、ひとつひとつの物のなかに「いつ一なるもの」を見出そうとするこの姿勢こそが、あらゆる詩が本能的に慕い寄る至高の感情であることに変わりはありません。


 そういうわけで、短詩型は他のどんな詩形よりも、詩的経験そのものに向かう戸口になることができます。ある詩が短詩型をとったとき、その作品は、もうただそれだけのことで、われわれが世界と結びあう関係のなかで「詩」となり得るものに、まっすぐ向かうことになるのです。

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 ところで、今こそ声を大にして申し上げねばなりませんが、われわれの詩の歴史では、これまで短詩型はあまり目立った存在ではありませんでした。なぜかと言えば、ヨーロッパでは長い間、現実はたんなる神の創造物であって、それ自体に神が宿るものではないと感じられてきたからです。ヨーロッパ人の精神は、風の音に耳を傾けたり、木の葉が落ちるのを眺めたりするよりも、神学的な、あるいは哲学的な思考をめぐらすことの方に、ずっと忙しかったのです。だからわれわれの詩は、そこである思考をきちんと展開するために、十分な長さを必要とします。比較的短いように見える詩、たとえばソネット(十四行の定型詩)の場合でも、その事情は変わりません。西洋の歴史では、ソネットは数世紀の間、きわめて重要な詩形でした。もちろんソネットは俳句の十七音よりはるかに長いとはいえ、たった十四行しかありません。だから、われわれにとっては短い詩なのですが、それでもその生み出す効果は、短詩型とは大違いです。というのは、ソネットはまずある種の構造をもつ二つの詩節――各四行ずつの二つの詩節で始まります。そして、今度はおのおの三行ずつの二つの詩節でしめくくられる。つまり、偶数のペアのあとに奇数のペアが続くわけで、それら二つの部分の間には、断絶のようなものがあります。この断絶は何かを意味しているようでもあり、また実際に何かを意味するように、よく利用されてもきました。だからソネットは、かなり短いとはいえ、ひとつの思考の展開であるだけではなく、前提と結論とを立派にそなえた三段論法に似ているふしさえあります。まあ、そうは言ってもむろん、他のどんな詩形でもそうですが、ソネットでも本物の詩的経験は可能です。たとえば偶数から奇数に移る九行目のところで、時が過ぎてゆくという感じ、つまりこの世に生きているという感じ、瞬間の感覚のようなものが、脳裡に目覚めることさえあるかもしれません。これもたしかになまの生の体験だと見ることもできるでしょう。とはいえ、ソネットがその歴史のなかで、実に長い間、プラトン主義の流行と密接に結びついていたのは、けっして偶然ではありません。ソネットは、少なくとも詩であるのと同じくらい、論説でもあるのです。


 実はわれわれの文学にも、これはたしかに短いという詩形がいくつかあり、エピグラム(寸鉄詩)はそのひとつです。でもその話はよしましょう。なぜならエピグラムでは、きらびやかな機知をひけらかすことだけが重要だからです。だからエピグラムは外の現実、外の自然とは何のかかわりもなく、会話・おしゃべりの空間のなかにある。おしゃべりを交わす人々は、さまざまな思考や、その思考を言い表わす見事な言い回しにしか興味がありません。この場合、詩形の短さは人を驚かすため、機知を見せびらかすためにあるわけで、こういう種類の短さに対しては、本物の詩人は嫌悪を感じるばかりで、当然ながら、ただ下らないとしか思いません。このような場面で本当の短詩型に出会うことはけっしてないのです。


 そういうわけで、十九世紀になると、まことに不幸なことに、つかの間の印象を語る以外に何の野心もない短詩の作者たちは、これまた下らない詩人、あるいは少なくとも、もっと長大な詩の作者よりマイナーな詩人だと見られるようにさえなりました。しかも、そうして二流扱いされる詩人たち自身が、まさにそのとおりだと納得していただけに、なおさらのことです。たとえばポール・ジャン・トゥーレPaul-Jean Touletという詩人は、たしかに大詩人だとは言えませんが、『反脚韻』Contre-rimesという詩集では、実に繊細な音色をひびかせています。詩をよく知るアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、トゥーレを高く買っていましたが、フランスでは、彼はまだあまり重んじられていません。ほぼ同じことが、ヴェルレーヌについても言えるでしょう。もちろん彼の場合には、大詩人であることを疑う人はおそらく一人もいません。とはいえ人々は彼の作品に対して、彼の人生のもっとも惨めな時期に折々見られる無責任さに結びつくような解釈を、好んで下します。彼の詩がすばらしい知覚の鋭さを発揮する場合があること、また詩集『昔と近頃』に収められた『クリメン・アモリス(愛の罪)』におけるように、今度は実に雄弁な論説を展開して、「世界内属存在」の諸問題を力強く提起することさえあることを、少しも見ようとしないのです。そう、ヴェルレーヌです。ついでながら申しますが、もし何か俳句に縁のあるフランスの詩を挙げよと言われたら、私はすぐにヴェルレーヌの詩のいくつかを思い浮かべることでしょう。皆さんは次のような筆致のなかに、何かなじみ深いものを認められるのではないでしょうか。

霧深い小川に落ちる木々の影が

 煙のように消えていき、

見上げれば、影ならぬまことの枝々で

 キジバトたちが嘆きの歌をうたっている。

 ただし、このヴェルレーヌの四行は、独立した詩ではなく、もっと長い詩の一部でしかありません。過去のフランス詩のなかで短詩を探すためには、むしろ湖上の鵜のように、長い作品のなかにもぐ潜り込み、そのなかで、詩人が論説の途中でふと立ち止まり、目を上げてまわりを見渡すような瞬間を見つけ出すほかはありません。そのとき、その詩人にとって、短さは前もって計算されたものではなく、思いがけない出来事だったのです。とはいえ、その詩人はきっと、何度もこう痛感したに違いありません――自分はいま、自分の詩的企ての山場にさしかかっているのだと。


 そんなふうに、フランスの社会とその宗教的信念は、ロマン主義の時代になって、現実の詩的理解には有利な方向に変わり始めました。キリスト教的な世界観の一種の衰退とともに、神秘的な生命に満ちた自然という観念が、詩人たちを促して、自然から得たさまざまな印象を重んじさせるようになりました。そして詩の論説的な面よりも、本来の詩的経験そのものがきわ立つことになった結果、短詩型の価値や可能性がよりよく理解されたばかりでなく、これこそが求めるものの核心かもしれないというわけで、意識的に短詩型が用いられることにさえなったのです。ランボーに起こったのは、まさにそういう事態です。彼ははじめ、思想性豊かな長詩を書いていましたが、すぐに一八七二年の詩や『イリュミナシヨン』の諸詩篇に見られるような、稲妻のように素早い筆法に変わりました。ランボーのこれらの詩は、フランスにおける短詩型の最初の傑作だと言えるでしょう。しかもランボーは、その生き方という点で、日本の詩人の誰彼と比べることができるようにも思えます。彼の詩は、われわれの近代のために偉大な手本となりましたが、それでも例外であることに変わりはありません。そして、具体的な現実世界を感知することこそが詩の勘所だということを、以前よりもっと痛感している現在の詩人たちのためには、どう見ても、他のもっと多くの証言が必要だったのです。


  二十世紀の後半にフランスで俳句への関心が高まり、今も大いに注目されているのは、そういうわけです。この関心が定着したのは、日本の詩人たちの作品とある種の詩人観が、翻訳や解説を通してひろがり始めてからのことです。ことに、R・H・ブライスの『俳句』は、われわれの一部に大きな影響を及ぼしました。これらの詩の翻訳は、必ずしも原詩のもつ豊かさのすべてを伝えてはいないかもしれませんが、フランスの読者の心をとらえるにはそれで十分でした。なぜなら、たんに詩が短いという事実だけでも――すなわち、自然界や社会の大いなる現実のあれこれを、ただ一望のもとに収め、ただひとつの印象にまとめ上げるという事実だけでも、りっぱに詩固有の価値をもつことが、今やわれわれにもよくわかっていたからです。しかも、これらの詩の読者たちは、さらに進んでその作者たちのことを学び、禅僧のことを知り、われわれ現代社会の精神の要求に力強く応えてくれる、ある高い精神性をさえ感得したのです。われわれ現代の人間は、自分たちの宗教的ないし形而上学的な信念の多くが、ただの神話にすぎないことを学び、理解しました。現象の裏には何もないという考え、人間が必ずしも自然より優れているわけではないという考えは、今後、誰もが受け入れるほかないものであり、しかも、俳句の理解を可能にするものでもあります。五〇年代以後、フランスの最良の詩人たちはみな、こういう詩形についてじっくり考えたと言って差し支えないでしょう。必ずしも「俳句様式」と呼べるものが生まれたわけではありませんが、あるもの(つまり俳句)を参照することが必要かつ根本的であるという認識が定着したのです。この認識は、将来も西洋の詩的思考の中心にあり続けることでしょう。

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 さて、次に申し上げるべきことは、この影響が具体的にどんな形をとったかという問題についてです。言うまでもなく、われわれが俳句をそのまま真似る必要、つまり、俳句のフランス語訳とほぼ同じ語数で、できるだけ短い詩を書くという必要はありません。ごく素朴なやり方でそれを試みた詩人も何人かいますが、これは見当違いというものでしょう。われわれには皆さんのように、目に見える文字の形で詩人の直観を支えるような手段がないので、たとえごく僅かな語数に抑えるにせよ、それらの語のなかでは、これからも抽象的・概念的な面が優位を占め続けることでしょう。だから、俳句の巨匠たちの筆遣いに似たような記述の深みと透明さに近づくためには、名詞と形容詞の助けを借りながら、長い戦いを続けなければなりません。そしてこの戦いは、書かれた詩のなかにはっきり跡をとどめていることが必要です。なぜならその痕跡によって、読者は詩のなかにその戦いを認め、それを追体験し、そうすることで詩人とともに、詩人がやっとできるようになったような仕方でものを見ることを学べるからです。以前のフランス詩と同様、今日の詩でも、短詩はまだつかの間の現象で、せいぜいのところ、時にはそれに近づくこともあるという程度、それ以上ではありません。だから、われわれに残された可能性と言えば、まだまだ長い詩のさなかで、短詩に向かう動きを起こすことだけでしょう。つまるところ、西洋の詩は、われわれの探求の日誌だからです。その探求とは、自分自身を解明するという困難で終わりのない試みなのです。


 この点についてさらに付け加えるならば、フランスの詩人が、仏教に強く染まった日本の詩から学ぶ教訓――個性を没し自我を去れという教訓が、どれほど当然かつ明々白々であろうとも、一個の人格としての彼の自意識は、けっして弱まることがないでしょう。個人そのものが現実であり絶対的な価値を持つというキリスト教の教えを、西洋人が忘れ去るのは容易なことではありません。フランスにおける詩的感性は、いつまでも詩人の自己省察に縛りをかけられたままであり、したがって、その偉大な詩はいつまでも、ある両面性の板挟みになり続けることでしょう。その両面性の一方には、個人の運命への強い関心があり、他方には、そうした運命がもはや意味をなさないような自然界・宇宙界の深みに没入したいという欲求があるのです。そのような両面性の例として、今から十年ばかり前に夭折した詩人、ピエール=アルベール・ジュルダン Pierre-Albert Jourdanの、しばしばみごとなできばえの作品があります。『庭に入る』L'Entree dans le jardinや『わらじ草鞋』Les Sandales de paillesなど――この後者の題名には、日本の出家詩人の生活が暗示されていることに、皆さんはお気づきでしょう――これらの作品には、アッシジの聖フランチェスコの遺産と、芭蕉の偉大な紀行文の遺産とが同居しています。


 とはいえ、皆さんが私に期待しておられるのは、たぶんもっと個人的な証言でしょう。そこで申し上げますが、短詩型、わけても俳句に対するこの関心は、私自身がじかに体験したものです。すべての始まりは、過去のフランス人作家の作品を読むさいの、ある読み方にありました。あるとき、中世の作品集のなかで、もう永久に失われてしまったある原稿の一部で、ただそれだけが生き残ったという短い断片に出会ったときの感動を、いまでも覚えています。私にとってこの断片は、一目で読めるりっぱな詩でした。こういう単純な言葉です。「ああ(悲しいかな)、オリヴィエ・バシュラン」 Helas, Olivier Bachelin。たった三語、しかもそのうちの二語は、二つ合わせてただ一個の固有名詞、オリヴィエ・バシュランという人名を表わしているだけです。しかし、こんなに短い語句のなかに、何という稲妻が駆け抜けることでしょう。一方には「オリヴィエ・バシュラン」――生きて、たぶん恋をして、喜びと悩みを知ったであろう人物。しかし、彼についてはまったく何も知られていないために、この人物はわれわれみんなの運命、そのもっとも根本的な面を意味することができます。そして他方には「ああ」。この語は、彼に不幸があったことを示し、そうすることでわれわれに、人生の浮き沈み、人生につきものの偶然、あらゆる人生の陰をうろつく「無」の存在を思い起こさせます。この地上における人間の思案の種の両極が、こうして唐突に突き合わされて、「存在」と「無」の同一性を告げるのです。そこでこれを読む者は、目を上げて、まわりの世界に向けて、すっかり迷妄からさめた視線、少しも距離を置かないじかの視線を注ぐ――そこにあるものすべて、つまり無いものすべてを、もの言わぬなまの現実と見定めるような、さめた視線を注ぐのです。この「ああ、オリヴィエ・バシュラン」は、その極度の簡潔さのせいで、多くの長詩よりもずっと直接的に、ずっと強力に、「詩」そのものとして私に迫ってきました。だから、もしこれらの三語もやはりご多分に漏れず、個人はそれ自体が絶対的な現実だという西洋の夢にとりつかれているのでなかったら、私はそれを俳句に比べたことでしょう。


この西洋の夢は、私のなかにも巣くっていました。そして、私自身が早くも短い詩型、とても短い詩型を用いて私の最初の本、一九五三年に出た『ドゥーヴの動きと不動について』(Du
mouvement et de l'immobilite de Douve)の第一部となるいくつかの詩を真剣に書き始めたとき、これらの詩もまた、その成分のひとつとして、個人の運命への強い関心を含んでいることを認めざるを得ませんでした。そのせいで、これらの詩は「いつ一」なる現実との本当の出会いをはばまれて、結局のところ、自己の内面を解明するという長い仕事を続けるよう私に要求したのです。この仕事が成功したあかつきには、夢にしがみつく「自我」が、ついには世界の明証性のなかに解消するはずなのです。もちろんこれはどう見てもできない相談であり、少なくとも私には達成不可能な仕事でした。しかしそれは、近代西洋詩に固有のものと私の信じる道を開いてくれました。すなわち、われわれ独自のフランス的な見通しの中にとどまりつつ、どのようにして俳句と出会うか、詩と知恵とを兼ね備えたこの教えとどのようにして出会うか、そのやり方を示してくれたのです。そしてその出会いの時というのは、われわれがものを書いているさなか、「自我」が相変わらず独り言を続けている最中に、人生に起きた何かの出来事のせいで、目の前に無言の現実がすっくと立ち上がるのを見届けることができる瞬間です。この現実は、われわれの関心にはまったく無縁であると同時に、きわめて温かく友好的でもあるのです。そういう瞬間のひとつが、いま挙げた本のなかに出ています。少なくとも私はそのように理解しています。そういうわけで、私にとってこの瞬間の詩は、私が書いたもののなかで初めて俳句との血縁をもったものであり、だからこそ、それをここで引用してみたいのです。これはわずか二行にすぎませんが、私の目から見れば、自立した一篇の詩になっているので、本の中ではこの二行だけを他から切り離して、まるまる一ページをそれに当てました。こういうくだりです。

君はランプを手にとる、ドアを開ける、

ランプなど何になろう、雨だ、もう夜明けだ、

何が言いたいか、おわかりでしょう。朝、田野をうるおす雨に気づく。この大いなる無言の明証性のなかで、「私」は突然自我を離れ去る。それゆえ、いつもながらの仕事を続けるのに必要だったであろうランプはもういらなくなり、ある新しい光が現われる――というよりも、いつもの朝の光が新しいやり方で現われる。おそらくは苦悶にみちた夜のあとで、家のしきい閾に立つこの瞬間、私の経験に忠実であるためには、短さが必要だったのです。これらの数語にさらに何かを付け加えれば、かえってこの経験を忘れさせる結果を招いたことでしょう。

 その後、私は依然としてこの朝の光、この明証性から遠ざかったままでした。ただ少なくとも、「詩」とは何であったか、以前にも増して私を俳句の読み取りに向かわせてくれたものが何であったかについて、私はもう知らぬ顔を決め込むわけには行かなくなりました。そうして芭蕉を愛読する準備ができていたときに、六〇年代になって、『奥の細道』のフランス語訳が出ました。その本の書き出しを読んだときのショックを、私はいつまでも思い出すことでしょう。「月と日は永遠の行き過ぎ人である。(…)私自身、いつの年からか、雲の切れ端が風の誘いに乗せられるままに、放浪への思いを募らせるばかりだった」。この芭蕉の翻訳によって、そして少し後にロジェ・ミュニエ Roger Munierが編んだ俳句のアンソロジーによって、日本の偉大な詩がフランスで発言権を得たのです。今後もそれが、われわれのもっとも内密な関心に語りかけるであろうことは、疑いをいれません。それどころか、われわれの詩のなかに、短詩の実験が行われることさえ考えられます。それは普遍的、国際的に価値あるものとしての俳句――特定の詩形としてではなく、ある精神、霊的経験の巨大な能力としての俳句がもたらした直接の結果なのです。


 もう一度、ありがとうを申し上げます。皆さんが私に向けてくださった関心にお答えする道は、松山の詩人たち、ことに正岡子規の作品に、もっと親しむことでしょう。これらの詩人がもっとフランスで知られることが望ましいのですが、皆さんのおかげで、私がまた故国で彼らについて語ることができるのを、幸運に思います。もうひとつ望まれるのは、俳句と短詩型を国際的に考えるという皆さんのプロジェクトが、ことにヨーロッパ諸国の人々との協力のもとに、ますます発展していくことです。そして私は、皆さんとともに過ごしたこの数日間の経験から、今後の新しい交流を生み出すような具体的な計画を持ち帰りたいと思います。われわれの共有財産である「詩」のために――のしかかる多くの危険から社会を守る手段として、わずかにわれわれに残された、「詩」のすばらしい未来のために。


オリジナル:フランス語バージョン
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